ビル・リップシュッツ
八年間勝ち続けて五億ドルも稼いだ「通貨の帝王」
世界の通貨市場では、一日平均、およそ一兆ドルが取引されていると言われている。大部分の通貨取引は、取引所のような一定の場所で取引されるのではなく、インターバンク(銀行間)市場で取引されている。この市場は二四時間取引されていて、アメリカからオーストラリア、極東、そしてヨーロッパ、またアメリカへと、文字通り太陽を追いかけながら世界を回っている。市場は、通貨価値が変わることによって損益が発生する企業がその価格変動リスクをヘッジ(回避)するために存在するが、同時に市場予測に基づいて売買益を追求する投機家のためにも存在する。
この大きなマーケットに何人かの大口プレーヤーがいた。皮肉にも、彼らは時として数十億ドルにも相当するポジション(そう、数十億ドルである!)を取るにもかかわらず、市場ではあまり知られていない。まして一般の人に知られることなど、まずない。ビル・リップシュッツはそんなトレーダーの一人である。 リップシュッツに対するインタビューは、長時間にわたるものを二日に分けて、彼の自宅で行われた。この邸宅には、いたるところにマーケット・モニターが置かれていた。もちろん、大きなテレビ・モニターもリビングに置いてあった。もっとも、映っていたのは実勢の通貨の取引価格であった。
モニターは書斎にも、台所にも、寝返りを打ったときにも見られるように、ベッドの横にも置かれていた。実際、通貨市場が活発に動く時間帯は、米国の夜にあたることが多いので、リップシュッツは寝返りをしてマーケットをチェックすることがよくあった。
モニターを見ないで用を足すこともできないような自宅であった。トイレの立ち位置に合わせた高さのところにも、モニターがあったからである。この男は、トレードに対して本当に真剣なのである。
ランディ・マッケイ
毎年、前年以上の収益を達成し続けている「ベテラン・トレーダー」
数千ドルから始めて、数千万ドルにまで取引口座を育て上げる先物トレーダーは、ごくわずかである。そして、稼いだ取引収益を失うことなくトレードし続ける先物トレーダーは、もっと少ない。さらに、高い一定の収益を二〇年間出し続けているという条件を加えると、これに当てはまる先物トレーダーの数は、非常に少数である。ランディ・マッケイは、そんな先物トレーダーの一人である。
マッケイがトレードを始めたのは、通貨先物が登場したのと同時期であった。通貨先物市場は、今でこそ活発に取引されているが、上場されたばかりのころは、瀕死の状態であった。当時、通貨先物の立ち会い場は静まりかえっていて、取引自体は、ここで行われる日々の活動、つまり新聞を読んだり、ボード・ゲームで遊んだりすることよりも、ずっと後回しにされていたほどなのである。通貨先物市場が根付くかどうかは怪しかった。しかし、マッケイがトレーダーとして成功することに、疑いはなかったのである。閑散な通貨先物の立ち会い場で、彼は、最初の二〇〇〇ドルから次々と巧みな取引を重ね、その年を七万ドルで終えることになる(実際には、七カ月の間の出来事であった)。
マッケイは成功し続け、毎年、前年以上の収益を稼いだ。しかし、この「毎年、前年以上の収益」というパターンは、彼が、立ち会い場ではなく、自宅からトレーディングを始めた年に途切れることになる。彼はすぐ必要な調整を行い、ホーム・トレーディング二年目には、初の一〇〇万ドルを記録する。その後、マッケイは「毎年、前年以上の収益」パターンに戻る。そして、一九八六年、彼は初めての損失を経験することになる。そのときまで、彼は自分の口座に、一〇〇万ドル以上の収益を七年間続けて稼ぎ込んでいたのである。
マッケイのトレーダーとしての経歴は二〇年。そして、彼はその中の一八年で収益を上げている。この間の彼の収益は、少なく見積もっても、数千万ドルになるだろう。同時に、マッケイは家族や友人のために、いくつかの他の口座も管理していた。そのうち最も古い二つ、これらは一九八二年に一万ドルでスタートした口座であるが、それぞれの通算収益は一〇〇万ドル超になっている。
←ウィリアム・エックハート
驚異的な勝ち組「タートルズ」を生み、年間収益率六〇%以上を誇る「実践的数学者」
ウィリアム・エックハートは、金融界を語るのに重要な人物の一人である。しかし、彼のことは一般にはあまり知られていない。もし優秀なトレーダーの知名度が他の業界の有名人くらいに高ければ、エックハートはアメリカン・エキスプレスのコマーシャルに出演していたであろう(もっとも、このコマーシャルは大統領候補だったバリー・ゴールドウォーターの相棒で副大統領候補だった人物を起用したりしているので、有名度だけで選んでいるのではないようだが)。
ウィリアム・エックハートとはだれなのか。彼は博士号を修得する直前に回り道をしてトレーディングの世界に入り、その後、少なくとも正式には、学問の道に戻らなかった数学者である。彼は当初、フロア・トレーダーとしてスタートした。最終的に彼がこの閉じこもりがちな取引の舞台から抜け出したことには驚くに値しない。それ以降、もっと分析的なアプローチをベースとしたシステム・トレーディングへと移行していく。最初の一〇年間、自分で作り上げたシステムと独自の市場判断で、エックハートは成功する。過去五年間、彼は幾つかの顧客口座も運用したが、年間平均収益率は六二%に達している。単年度の収益率レンジは、一九八九年のマイナス七%から一九八七年の二三四%である。総合すると、一九七八年以来、損失を出した一九八九年以外、常に年間六〇%以上の収益を稼ぎ出している。
一般大衆に知られることなくトレードを続けた後、このインタビューの時点では、資産管理の仕事を拡大するため、エックハートには広く顧客にアピールする必要があった。しかし、なぜ、今になって資金を集めるためとはいえ、スポットライトを浴びる気になったのだろうか。なぜ、今まで通り、自分と幾つかの顧客口座のみを対象としてトレードを続けないのだろうか。「タートルズ」へ言及しながら、彼は素直に認めた。「嫌になったのさ、僕がそれなりの金額を扱っている一方で、教え子たちがとてつもなく莫大な金額を取り扱っているのを見るのが」。明らかに、エックハートはマーケットに対する貸しを回収する時が来た、と思ったのである。
The Silence of the Turtles
沈黙するタートルズ
養成されたスーパー・トレーダーたちの横顔
「どんな人でも優秀なトレーダーに育てることができる」のか否か。数千ドルを二億ドルと推定される資産に育てた伝説上のトレーダー、←リチャード・デニスは、彼のパートナーであったウイリアム・エックハートと、そんな議論をしていた。エックハートは同意しなかったが、成功するトレーディングは教えることができる、とデニスは思っていた。
この議論に結論を出すため、二人は、『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙に広告を出し、トレーダーとして訓練されたい人々を探してみることにしたのである。書類審査や試験の結果を経て選ばれた人々に対して面接を行い、応募者一〇〇〇人を最終的に一三人に絞った。この幸運な一三人は、デニスとエックハートから、彼らの取引システムについての教授を受けることになった。二人は、隠すことなく、すべてについて具体的に教えた。研修が終了すると、デニスはこの一三人に資金を与え、トレーディングを開始させた。
最初の一三人が初年度好成績を上げたので、デニスは、次の年、新しい一〇人に対して実験を繰り返した。この二つのグループのトレーダーたちは、後に、業界で「タートルズ」として知られるようになる。このタートルズという名前は、この時期、デニスが東洋を旅行したときに付けられたと言われている。この旅行中、亀の養殖場を訪れたデニスは、大きな桶の中で養殖されているたくさんの亀を見て、自分がトレーダーたちを育てているのと同じだと思った。「デニスのタートルズ」である。
私がソースの一つとして使ったのが『マネイジド・アカウント・リポート』誌が発行する季刊報告書は、非常に多くのCTA(商品投資顧問業者)のパフォーマンスを業者ごとに一ページにまとめている。年間収益の平均、最大損益、収益率、収益を上げなかった月の割合、そして特定のCTAについては、五〇%、三〇%、二〇%の損失を出す可能性などについてである。客観的に調べるため、私は、CTAの名前を見ないで、飛び出してくるようなパフォーマンスを残しているページに印を付けながら、その数字だけを追いかけた。
最終的に、私は一〇〇人超のCTAの中から一八人を選んだ。すると、この一八人の中の八人(四四%)はタートルズだったのである。驚くべきことである。リチャード・デニスは正しかった。
←マイケル・カー
市場より自分が市場にどう反応するか考える
大騒ぎや、時として非礼な対応の中でタートルズにインタビューを依頼していた私にとって、マイケル・カーの応対には安堵するものがあった。
カーは、デニスが育て上げた最初のタートルズの一人である。一九八四年にトレードを始め、デニスの下で仕事をしていた最初の四年間、年間平均五七%の収益を稼いだ(一九八九年、独立したカーの収益率は多少下落することになる)。その後、カーは自分のCTA会社を設立する一九八九年八月まで取引を再開しなかった。このときから一九九一年までのカーの収益は、八九%となっている。
ウィスコンシン州にあるカーの家で、インタビューは行われた。彼の家は、湖の中央にあり、陸までは長いドライブ・ウエーでつながっていた。嵐が来ようとしているときに到着した私は、四方に窓があり、湖面をすべての角度から見渡せるカーのオフィスで彼と会った。湖のパノラマと嵐は、背景としては最高であった。そして、不幸なことに、それはインタビューそのものよりも、ドラマチックだった。
カーは友好的であったが、われわれの会話は、他のタートルズとのインタビューでもそうだったように、彼の用心深さに邪魔されることになった。
←ハワード・シドラー
マーケットに対する敬意と恐怖を忘れてはならない
シドラーは、私がインタビューしたタートルズの中で、一番熱狂的なトレーダーだった。トレーディングの喜びを感情と言葉で語ってくれた。インタビューの中での彼のトレーディングに対する姿勢はとても積極的で、自然と私は彼が勝ち続けているものとばかり思っていた。驚いたことに、このインタビュー以前の半年間、シドラーのパフォーマンスはマイナス一六%と、彼としては二番目に最悪な数字を記録していたのである。シドラーは、最も幸福なタートルズである、と私は思う(パフォーマンスについては、一九八四年にトレーディングを始めて以来、年複利計算で年間平均三四%の記録を残している)。
←モンロー・トラウト
システムと相場観を調和させ、最高のリターンを叩き出す「ポジション・トレーダー」
モンロー・トラウトに初めて会ったのは、数年前、私の会社のブローカーが彼を新規顧客として開拓していて、会社紹介を兼ね、トラウトを社に招待したときだった。彼が新米のCTA(商品投資顧問業者)であったことは知っていたが、それ以上はあまり知らなかった。その後、やり手の若いCTAの一人としてトラウトの名前を頻繁に聞くようになったが、この本の準備を始めるまで、どのくらいのやり手なのかは知らなかった。
『マネイジド・アカウント・リポート』という季刊誌を調べていると、収益に対するリスクの割合で見たとき、一〇〇人以上のCTAがリストアップされている中で、トラウトは最高の数字を残していたのである。リストには、彼よりも年平均の収益率が高いCTAは数人いたが、ドローダウンの率が低いCTA(同時に、彼らの収益率はとても低かったが)はより少なかった。しかし、両方の割合という意味では、だれ一人としてトラウトに迫るCTAはいなかったのである。調べた五年間のパフォーマンスでは、彼の平均年間収益率は六七%、そして資金のドローダウンは、驚異的に低く、たったの八%あまりだったのである。
また、彼のパフォーマンスの一貫性を示すもう一つの例として、彼はこの五年間を通して、八七%の月で利益を叩き出しているのである。さらに、伝説的で特別優れたトレーダーであるポール・チューダー・ジョーンズでさえも、同時期のトラウト(彼は一九八六年に公的資金を運用するマネジャーになった)が残している収益率/リスクの実績には全く及ばないことを発見して、私は驚かされたのである。
アル・ウェイス
四年をかけて一五〇年分のデータを分析し尽くした「チャートの生き字引」
収益とリスクの比率に関していうと、アル・ウェイスは、最高の成績を長期間保持しているCTA(商品投資顧問業者)ということになる。一九八二年にAZF社でトレーディングを始めてからの年間平均収益率は五二%である。一九八二年にウェイスに投資した一〇〇〇ドルは、一九九一年の終わりには四万三〇〇〇ドルになっている計算である。
しかし、収益率はこの物語の半分に過ぎない。ウェイスの本当に驚くに値する要素となっているのは、この期間に発生した資産のドローダウンが実に取るに足らないものでしかなかったので、この高収益を実現できたということであろう。これまで、ウェイスが経験した最も大きなドローダウンは、一九八六年の一七%だった。過去四年間(一九八八〜九一年)、彼はリスク管理の標準を非常に厳しく設定し、この期間の最悪のドローダウンを四%にまで下げ、年間平均収益率を二九%超にまで高めた。一九九一年まで、彼はインタビューを断わり続けていた。「少なくとも一〇年間はこの優秀なパフォーマンスを維持できなければ、私の取引手法が実証されたことにはならないと思っていたから」と彼は説明している。
彼の趣味の一つは、他のトレーダーに投資することである。月に一日か二日は、その趣味に時間を割く。彼自身の推測によると、ウェイスはこれまでに八〇〇人ほどのトレーダーのパフォーマンスを調べた。この中から二〇人くらいを選び、彼の個人資金を運用させている。彼の目標は、一人のスーパー・トレーダーを選ぶのではなく、何人かのトレーダーをグループとして組み合わせ、グループのパフォーマンスとして高い収益率と低いドローダウンを達成することである。
←スタンレー・ドラッケンミラー
←ソロスの下で、柔軟さと多様性の極意を身に付けた「売りの名人」
スタンレー・ドラッケンミラーは、ポートフォリオ総額数十億ドルを運用している、世界でも数少ないファンド・マネジャーの一人である。一億ドルのポートフォリオで四〇%の収益率を稼ぐのは立派なものである。そして、同じ収益率をドラッケンミラーの運用額で達成するのは驚異的である。彼が崇拝し、助言者でもあるジョージ・ソロスから三年前に受け継いだクォンタム・ファンドは、年平均で三八%強の収益率を記録している。そして、この間、ファンド総額は二〇〜三五億ドルで推移しているのである。
大学院進学を捨てて実社会に飛び出してから、ドラッケンミラーは風のように業界の階段を上り詰めていく。ピッツバーグ・ナショナル銀行で証券アナリストを一年弱、すぐに証券調査部長。その後一年足らずで、重役が銀行を退職すると、ドラッケンミラーはその後釜に座る。その二年後の一九八〇年、うら若き二八歳の彼は、銀行を去り、自分の投信会社、デュークス・キャピタル・マネジメントを設立することになる。
一九八六年、ドラッケンミラーはドレイファス社にファンド・マネジャーとして採用される。採用の条件として、運用していたデュークス・ファンドを、彼が引き続き運用していくことをドレイファス社は許可した。ドレイファス社に入社するころには、ドラッケンミラーの運用方法は、株をポートフォリオで抱えるスタイルのオーソドックスなものから、米国債や通貨や株を組み合わせて、売りからも買いからも入っていけるスタイルに変わっていた。この独自な運用スタイルに触発されたドレイファス社では、それを模倣する形でファンドを幾つかスタートさせている。この中で、最も有名なのがストラティジック・アグレッシブ・インベスティング・ファンドで、スタート(一九八七年三月)からドラッケンミラーがドレイファス社を去る一九八八年八月まで、業界最高の実績を上げたファンドである。
そして、われわれの時代で最も偉大な投資家として彼が尊敬する、ソロスの下で仕事をしたいというドラッケンミラーの希望は、彼にドレイファス社を辞めさせ、ソロス・マネジメントに行く決意をさせることになる。ソロスの下に移ってしばらくすると、ソロス自身は東欧・旧ソ連の閉鎖された経済を変革するプロジェクトに専念するため、ファンドの運用をドラッケンミラーの手に委ねることになる。
デュークス・ファンドがドラッケンミラーの長期的なパフォーマンスを計る材料になる訳であるが、一九八〇年のスタート以来、このファンドの平均年間収益率は三七%である。しかし、ドラッケンミラーは、現在の柔軟な運用スタイルの適用を始めた一九八六年中ごろまでのパフォーマンスは直接的な意味を持たない、と言う。そして、このファンドの彼が指摘した時点からのパフォーマンスは平均して年四五%である。
←リチャード・ドライハウス
「高値で買い、さらに高い値で売る」極意で年率三〇%を誇る「買いの名人」
リチャード・H・ドライハウスが株式相場に目覚めたのは、まだ幼いころであった。情熱を傾け続けた彼は、一〇代になったばかりで、経済コラムニストの言葉を鵜呑みにするのはバカげていることを悟ってしまう。そこで、地元の図書館で手当たり次第に株式関連のニュース・レターや経済誌を読みあさり、相場を独学する。後に、証券アナリストやポートフォリオ運用担当者として、彼が基本とする市場アプローチの核となる投資哲学の形成は、この子供時代に端を発しているのである。
大学卒業後、マーケット関連の仕事に就きたいという希望を持っていたドライハウスは、リサーチ・アナリストの職を得る。仕事自体が嫌いな訳ではなかったが、自信を持って勧める銘柄が営業部門から見向きもされないことで、彼のフラストレーションは募っていくことになる。ドライハウスが初めて実際に資金運用の機会を得たのは一九七〇年、A・G・ベッカーの金融法人部門で働いていたときである。幸運にも、彼のトレード手法は自分が思っていた以上に実際の投資で効果を上げた。A・G・ベッカーのマネジャーとして働いた三年間、当時のファンド格付け会社としては最大級のベッカーズ・ファンド・エバリュエーション・サービスによって、彼はポートフォリオ運用担当者の格付けリストで上位一%にランクされるようになっていた。
A・G・ベッカーを去った後、ミュラニー・ウェルズ・アンド・カンパニー、ジェサップ・アンド・ラモントでリサーチ・ディレクターを務め、一九八〇年、ドライハウスは自身の会社を設立する。その後の一二年間、彼の平均年間収益率(売買手数料とマネジメント・フィー控除後)は三〇%超を記録している。同期間、S&P五〇〇種指数の収益率は一六・七%で、彼のパフォーマンスの約半分でしかなかった。すなわち、一九八〇年に一ドルを投資した場合、一九九一年末時点でドライハウスのスモール・キャップ・ファンドでは二四ドル六五セントになっている計算である。
ドライハウスは小型株投資を中心に行ってきたが、それ以外にも対象を拡大している。中でも、彼が特に気に入っているのがブル・アンド・ベア・パートナーシップ・ファンドで、このファンドは、運用を始めた最初の二年間(一九九〇年、一九九一年)、それぞれ六七%、六二%の年間収益率(二〇%の成功報酬控除前)を実現した。そして、この二四カ月の間に三カ月の損を出しているが、最大でもたったの四%に過ぎなかったのである。
ギル・ブレイク
損失補填まで保証し、年利益率二〇%以下に落としたことがない「堅実性の覇者」
トゥエンティー・プラスとは、ギル・ブレイクの運用会社の名前である。彼の名刺やレターヘッドにはこのロゴが入っていて、図柄は二〇%以上の年間利益率を達成することが、標準偏差二つ分、平均の左側に分布していることを示している。統計学に詳しくない方々のために言い換えると、九五%の確率で年率二〇%以上の収益を実現しているのである。また。このロゴに示されている収益の確率分布曲線には、年率ゼロ%以下が存在しない。年間では決して損を出さない、というブレイクの自信のほどを見事に物語っているのである。
ブレイクの自信は、また、証明されてもいる。トレードを始めてから一二年間、彼は年平均で四五%の収益を上げているのである。それ自体も素晴らしい数字であるが、ブレイクの本当の素晴らしさは、そのパフォーマンスの安定性である。ロゴにあるように、彼は決して利益率を年二〇%以下に落としたことがない。事実、一九八四年の二四%が彼の年間収益率としては最低の数字である。しかし、その最悪の年でさえ、しっかりとおまけがついている。一二カ月、すべての月で利益を上げているのである。
ブレイクの安定性を正しく評価するためには、彼の月間パフォーマンスを見なければならない。驚くべきことに、一三九カ月中一三四カ月(九六%)で、彼はブレーク・イーブンか、利益を記録しているのである。さらに、継続して損失を出さなかった期間が六五カ月。
取引手法への自信は、ブレイク独自の報酬システムにも現れている。年間収益の二五%が彼の報酬であるが、このシステムの独自性は、彼が顧客に対して損失の二五%を保証していることである。さらに、初めての顧客には、最初の一二カ月について損失の一〇〇%を保証しているのである。しかし、数字から明らかなように、これらの損失補填を行う必要が生じたことはない。
ブレイクは、いわゆる投信のタイマーである。一般的に投信タイマーは、株や債券のファンドに発生する利回りを、その収益環境が悪化すると考えられるときはいつでも、MMF(マネー・マーケット・ファンド)に乗り換えることによって向上させようとする人たちである。
←ビクター・スペランデオ
マーケットの年齢と確率を計算し、年平均七二%を一八年間も続ける「究極の職人」
一九六九年の弱気市場のなか、スペランデオはトレーディングの能力がもっと給料に反映されるチャンスを求めて転職する。前の会社での定額賃金体系とは異なり、今度の会社では、オプション売買で稼ぎ出した利益の一%が彼の報酬となった。弱気市場が続いており、この会社は用心深い経営方針を取っていたため、固定給を約束することはなかったのである。しかし、スペランデオは喜んでこの申し出を受け入れる。売買による稼ぎの一%の分け前を得ることで、彼には実質的に収入を増やせる自信があったからである。
六カ月後、スペランデオの報酬は五万ドルになっていた。彼の上司は「君には固定給を払うことを決めたよ」と褒め称えた。しかし、それまでの歩合制賃金に代わる固定給は、なぜか二万ドルとボーナスに関するあいまいな約束。三週間後、スペランデオは転職した。不運なことに、彼は、この会社も前の会社と同じであることに気付くことになる。
六カ月後、資金を提供してくれる共同経営者を見つけ、スぺランデオは自らの会社「ラグナー・オプションズ」を創業する。履行保証付きのオプション価格を顧客に対して提示する、という方針を取った結果、六カ月でラグナー社は世界最大の店頭オプション・ディーラーになったという。
最終的に、ラグナー社はウォール街のある会社と合併する。スペランデオは合併後もこの新会社にしばらく残ったが、一九七八年、インターステート・セキュリティーズ社に転職することになる。ここで、自己勘定と幾つかの個人口座を運用する。報酬は会社と(収益も損失も)折半、という契約であった。得意な手法を好きなマーケットで使える完全な独立性、資金的な裏付け、利益(と損失)の正当な分け前、遂にスぺランデオは求める職場を得たのである。しかし、この理想的な状況は、インターステートが株を公開した一九八六年に終焉を迎えることになる。トレーディング部門を閉じることになったからである。その後、一年余り、スペランデオは自己資金でトレードしていたが、自分の運用会社「ランド・マネジメント・コーポレーション」を創業することになる。
トレーディングに関して彼は、大きな利益を上げることよりも損失を避けることに重点を置いてきた。実際、一九九〇年に最初の損失を記録するまで、継続的に、一八年間連続して勝ち続けたのである。
この間、平均年間収益率は七二%、最低は一九九〇年のマイナス三五%、最高年間利益率三桁を記録した年が五年もあったのである。
どんな事態にも冷静沈着に対応する精神を持つ「トレーダーのかがみ」
トム・バッソはある重要な意味において、私がインタビューした中で、たぶん最も成功したトレーダーと言える。もし「成功」とは「大金を稼ぐこと」なのであれば、彼を「成功」者とは呼べないかもしれない。しかし、「成功」とは「十分に稼ぎ、素晴らしい人生を送ること」であるとすれば、そういう意味において、トム・バッソほど「成功」者と言える人はいないだろう。
初めてトム・バッソに会ってすぐ、私は彼のトレードに対する信じられないほどの落ち着いた態度に強い印象を受けた。バッソはトレードでの損失を、理性だけではなく、感情のレベルでも受け入れることを習得していたのである。さらに、トレードに対しての(また、同様に人生に対しての)喜びに、彼は満ち満ちていたのである。バッソは、完全な精神的安定を維持し、素晴らしい喜びを重ねながら、利益を上げるトレーダーとしてやってきたのである。その意味で、バッソ以上のトレーダーはいないのである。
バッソは、社会人としての第一歩をモンサント社のエンジニアとして歩み出した。しかし、この仕事は彼を完全燃焼させてはくれなかったため、道楽がてら、投資の分野に手を出し始める。金融分野での最初の試みは、彼の先物取引口座で行われたが、すぐに悲惨な結果に終わる。バッソが先物で利益を出せるようになるまでには長い年月がかかったが、成功するまで、彼はトレードを続けたのである。
ある投資クラブの関係で、一九八〇年から、彼は顧客資金の運用を手掛けることになる。そして一九八四年、運用対象を先物にまで拡大することになった。こういった小さなサイズの先物口座(二万五〇〇〇ドル足らずの場合もある)は、収益が乱高下するのが常である。適度な分散効果を維持しながら、程よいレベルで収益率を安定させるためには、最低預かり資産額を思い切って引き上げる必要があることを、バッソは悟る。
一九八七年、最低預かり資産額を一〇〇万ドルに引き上げ、それ以下の預かり資産は返還することにした。現在、彼は株式と先物の両方で、顧客口座を運用し続けている。
音符を読むように価格変動を予測する「ナンバーワン短期トレーダー」
トレーディングに対して真剣なリンダ・ブラッドフォード・ラシュキは、出産の当日もトレーディングをしていた。「出産の最中には、さすがに、トレードはできなかったでしょう?」と、私が冗談半分で尋ねると、「できませんでした」と彼女は答えたが、続けて「でも、朝の四時でしたから、マーケットは開いていませんでした。ただ、娘を出産した三時間後にはトレードをしていました。その日が最終取引日になっていた通貨のマーケットで売り持ちを抱えていましたし、いいポジションだったので、次の限月にこのポジションを移したかったものですから」。このように、リンダ・ラシュキはトレーディングに対して真剣なのである。
早い時期から、ラシュキはマーケットにかかわりたいという希望を持っていた。大学を卒業した後、思った通りに株式ブローカーの職に就けなかったとき、当時の仕事場へ出社する前に、彼女はパシフィック・コースト証券取引所の取引フロアに立ち寄るのを日課にしていた。マーケットに魅せられていたことがこの日課の動機であったが、これによって彼女はトレーダーになる機会を得ることになる。日課を通じて取引所のローカルズの一人と友人になったラシュキは、彼からオプション取引の基礎を学ぶことになる。彼女が熱心であり、理解が早いのに感心して、このトレーダーは彼女にトレーダーへの道を開く。
最初にパシィフィック・コースト証券取引所、次にフィラデルフィア証券取引所、都合六年間、ラシュキはフロア・トレーダーとしての経験を積む。初期に一度ひどく負けた以外、彼女はフロア・トレーダーとして着実に利益をものにしていた。
一九八六年の暮れ、乗馬事故で負傷したことからフロア・トレーディングが困難になり、オフィスからトレードしなくてはならなくなると、この取引環境が自分に合っていることに気が付き、その後、オフィスから自宅にトレードの場を移した。オフィス・トレーディングに移ろうとするフロア・トレーダーの多くは、トレードの場をオフィスに移した最初の年度に大きな困難にぶつかることがあるが、ラシュキの場合、フロアを離れた初年度、自己最高収益を記録することになる。そして、その後も、彼女は継続的に収益を上げている。
マーク・リッチー
膨大な利益をアマゾン・インディアン救済のために使う「ピットに降りてきた神様」
このサブタイトル(ゴッド・イン・ザ・ピッツ=原書のサブタイトル)は、マークの精神を垣間見せ、刺激的経験に富み、そしてトレーディングの話もある、リッチーの自伝のタイトルである。しかし、決して彼が神のようなトレーディングの腕前を持っていることを示唆するものではない。反対に、このタイトルは、その人生を通じて彼が確信した神の存在のことを指しているのである。
トレーディングから、これほども程遠い教育を受けたトレーダーもいないであろう。マークは、神学校に通っていたのである(負けポジションのことを神に祈ったとしても、それが役に立つことはない)。神学校に通っている間、マークは経済的に窮していた。刑務所の監視員(夜間勤務)、トラック運転手などのパートをこなしていたが、トラックの燃料も払えないときがあったほどである。こんなマークが最初にトレーディングに魅せられたのは、兄のジョーに連れられて世界最大の先物・オプション取引所、CBOTを訪れたときであった。
大豆製品のトレードを専門として、マークはそのキャリアのほとんどをCBOTの立ち会い場で送ることになる。立ち会い場でのマークは優秀なトレーダーであったが、五年前、トレードの場所を立ち会い場からオフィスに移すことを決断した。
このトレード環境の変化に対応するため、マークは多くの取引戦略を、時間をかけて検討する。オフィスでの一年目、経験不足からいくつもの不用意な状況を経験し、マークにとっては厳しい年となった。にもかかわらず、立ち会い場を離れてトレードするという決断が、最終的には正しかったことを彼は証明することになる。一九八七年に一〇〇万ドルで始めたマークの取引口座は、次の四年間、平均年間収益率五〇%を記録しているのである。
マークの興味は広く、トレーディングの世界を大きく超えている。最近は、アマゾンで原始的な生活を送る部族を救済するための慈善事業に夢中になっている。
ジョー・リッチー
高等数学の行間を読み取り、世界一のトレーディング・オペレーションを構築した「直感的な理論家」
ジョー・リッチーはCRT(シカゴ・リサーチ・アンド・トレーディング)の設立者であり、その原動力となっている人物である。彼のアイデア、コンセプト、理論こそがCRTの複雑な根源をなしているのである。高等数学を習得している訳ではないが、多くの人が彼を生まれながらの数学の天才と考えている。CRTで使われる数学的に複雑なトレーディング・モデルのことを考えると、彼がその分野で天才的であるのは間違いない。数学は感覚的、直観的に理解するもの、とジョーは言っている。
CRTは単独で成功したのではない、というのを強調したのはジョーが初めてだった。会社が成功するために必要不可欠だった人物がたくさんいる、ということであった。このインタビューでも、ジョーは私にCRTの他の人たちとも話すように提案した。社員の一人は、リッチーの哲学を「ジョーは、社員に権限を与える人です。彼は社員を信じているのです。CRTが利益を上げられる理由の一つは、私たちが彼の自己資金を危険にさらすことに違和感を持たないように、ジョーが気を配っているからです」と言った。
世界で最も成功したトレーディング・オペレーションを構築した男らしく、ジョー・リッチーは大胆で、精力的で、優秀な男である。仕事は、彼にとっての楽しみなのだ。それは、終わることのない挑戦であり、変化し続けていくパズルなのである。しかし、仕事にはジョーを歓喜させる別の重要な側面がある。人である。「仕事をしに会社に来るのが大好きなのさ」と、彼は臆面もなく公言する。本気でそう思っているのである。仕事を愛し、CRTを家族の延長と思っているからなのだ。ジョーの、社員に対する深い愛情を感じる。
ブレアー・ハル
有利なオプションを組み合わせて、六年半で一三七倍の収益を上げた「元ギャンブラー」
ブレアー・ハルはトレーダーになる前、ブラックジャックのプレーヤーだった。奇妙に思えるかもしれないが、決してそうでもない。現実に、この二つはとても似ているからだ。しかし、ポイントは、トレーディングで勝つことはギャンブルでの運に似ているということではない。むしろトレーディングとギャンブルの両方で勝ち続けるのは、戦略と訓練の成果であり、運ではないということである。運は、不利な状況をなんとか切る抜けるための短い間しか、その役割を果たさない。
カジノがハルのブラックジャック・チームに目を付け始めたため、彼は確率論でカネ儲けができる別の道を探していたのである。そして、この確率論の一般的な原則が、価格設定を誤ったオプション取引に応用できることに気が付いた。一九七六年に二万五〇〇〇ドルで始めた彼の資産は、一九七九年の初めにはその二〇倍になっていた。彼はその後も着実に利益を重ね、(彼がトレードを休んだ年を除いて)年間平均で一〇〇%の収益率を出し続けた。
一九八五年、ハルは彼のトレーディング戦略の場を拡大するため、ハル・トレーディング・カンパニー(HTC)を設立した。ハルの会社は複雑な戦略を練り、一時的な価格設定の間違いから利益を得るために、互いに相関関係のある広い範囲のオプションを組み合わせて取引していた。そして同時に、そのためのリスクは最低の水準に維持していたのである。HTCは、CBOE、CME、アメリカン証券取引所、ニューヨーク証券取引所、そしてさまざまな外国の取引所など、多くの取引所でマーケット・メーカーをしている。彼らが自らマーケット・メイクで取引するオプションの量は、出来高全体の一〇%以上を占めている。
HTCの収益グラフは、トレード・システムの広告で使われる収益シミュレーションのグラフにそっくりである。異っているのは、HTCのグラフは現実のものであること、だけである。一九八五年の当初資金一〇〇万ドルは、一九九一年の半ばまでに、経費を差し引いても、九〇〇〇万ドルになっている(この期間の総収益は、約一億三七〇〇万ドルとかなり大きい)。しかし、驚くべきなのは、この膨大な利益実績にもかかわらず、HTCが限定的なリスクしか取っていないということである。設立されて以来、HTCは六九カ月の中の五八カ月で収益(経費差し引き後)を稼いでいる。そして、事実上、取引損失を記録したのは、たったの五カ月のみである。
ジェフ・ヤス
相手の取引技術や知識によって自在に見方を変える「オプションの戦略家」
ジェフ・ヤスがフィラデルフィア証券取引所のフロアで、オプション・トレーダーとしてスタートしたのは一九八一年のことだった。彼は、大学の友人をこの取引に誘ったりするほど、オプション取引の可能性に心を奪われていた。そして、実際に、彼は一九八〇年代初頭、六人の友人をトレーダーとして訓練したりした。一九八七年にヤスと友人たちはサスケハンナ投資グループを設立。この会社は急成長を遂げ、今や九〇人のトレーダーを含む、総勢一七五人の大所帯になっている。今日、サスケハンナは世界でも有数のオプション取引会社であり、またプログラム・トレーディングの会社でもある。
ヤスは、標準モデルをベースに複雑なオプション価格調整をした独自のモデルによって、マーケットの不完全さを探り当てる。しかし、彼のアプローチは、オプション・モデルの違いではなく、勝利を最大限にするために用いられる数学的なゲーム理論である。ヤスにとってマーケットは、巨大なポーカー・ゲームのようなもので、相手の取引技術のレベルに注意しなくてはならないところなのである。彼は、たとえ話として次のように言っている。
「私が世界第六位のポーカー・プレーヤーで、一位から五位のプレーヤーと一緒にゲームをしたら、ほとんど勝ち目はない。ところが、もし私が極めて平均的なプレーヤーだったとしても、相手が平均以下なら、勝つことができる」
ヤスは、相手の技術と知識のレベルを想定し、それを計算に入れ、取引戦略を調節する。また、彼は自分より情報に精通しているトレーダーの行動によって、彼自身のマーケットに対する見方を全く変えてしまうことや部分的に変えてしまうことを躊躇しない。ヤスは頭の回転が速く、また早口でもある。
←チャールズ・フォルクナー
時間と経験を積んで、一つのシステムを極める者だけが成功する
ノースウエスタン大学の大学院で言語心理学を学んでいたチャールズ・フォルクナーは、NLP(神経言語学プログラム)の設立者であるリチャード・バンドラーとジョン・グリンダーによって書かれた初期の二冊の本に夢中になり、大学院での研究を放棄することになった。一九八一年、フォルクナーはグリンダーと研究を始め、その後、バンドラーや他のNLP開発者たちとの研究に従事し、一九八七年に公式のNLPトレーナーになった。フォルクナーの研究の焦点は、人間の優秀さをモデル化することだった。この研究のため、彼が手掛けたプロジェクトは、高速学習、医療意思決定、先物取引であった。フォルクナーは、コンサルタント、NLPセミナー・リーダー、メディア番組制作者であり、またNLPテクニックを使った教育テープも出版している。
私がチャールズ・フォルクナーに会ったのは、ある先物業界のシンポジウムで講演したときのことであった。その講演で、私は、何度か執筆中だったこの本について触れた。フォルクナーは、トレーダーとして成功するための精神的な構造について、調査・コンサルティングした経験があると言った。私は、彼の話に興味を覚えたし、執筆中の本で取り上げられるかもしれないと思った。しかし、その時点では彼にインタビューしている時間がなかった。箱に入ったカセット・テープのセットを私に手渡して、フォルクナーは感想を聞かせてくれと言った。
そのテープは、NLPのテクニックを、いろいろな目的を達成するために応用することを扱ったものだった。ちょっと同意できない要素もあったが、部分的には目標に対する集中力と動機を強化することに役立ちそうなものがあった。全体的にはなかなか良くできたテープで、私は彼にインタビューすることを決め、シカゴへもう一度行くことにした。
NLPの一部は、人が言動で示唆するものを研究していた。仕種、目の動き、言葉、声の強弱などである。フォルクナーは、明らかにそれらを解釈する技術を身に付けていた。そして、私には彼の強い感受性が印象的だった。
ロバート・クラウス
「勝利に値する人間である」ことを潜在意識に認識させることが、成功への第一歩になる
初めてロバート・クラウスを知ったのは、トレーディングに興味を持つ寄稿者によって大部分が構成されている出版物であるCLUB三〇〇〇というマーケット・レターに掲載されていた一通の手紙を通じてである。英国催眠術師協会の会員でもあるクラウスの潜在意識開発テープで、この手紙の主がいかに自分のトレーディングを大きく向上させたかについて報告されていた。非常に興味をそそられる内容であった。
「並み以上の生活ができるくらい稼いでいた」と言う以外、クラウスはトレーダーとして上げた具体的な成果については話さない。職業としてのトレーディングを議論するときに、クラウスは生き生きとしていた。そして、それは「世界で最高のビジネス」であると力強く言った。「これほど黒と白がはっきりする職業はない。正しいか、間違っているか、そのどちらかだ」(そう言ったとき、彼が黒のスラックスと白のシャツ姿であることに私は気付いた)。「トレーディングには魅せられます。トレーディングは、すべて、自分自身の才能と能力の結果だからです」。
フォート・ローダーデールの彼の家で、私はクラウスに会った。開放的で友好的な男性だった。自ら空港に私を迎えに来ると申し出、邸宅の隣にある客用のコテージに泊まっていくよう熱心に勧めてくれた。
オフィスの作業台を覆っているクラウス手書きの三×二フィートのチャートを見るまでもなく、彼がとても真剣なチャート分析家であることは分かっていた。取引日や時間に対応して縦の棒線を使う古典的なチャートでなく、クラウスのチャートは、価格と時間の関係を棒線の長さと幅で表すシメトリクスと言われるものであった。これは、W・D・ギャンの最初の弟子の一人であるジョー・ロンディノーネによって開発されたと言われる手法である。
インタビューは、時間をかけた夕食で中断したりした。しかし、トレーダーとしてのクラウスが、ハンガリー料理のコックとしての腕前と同じくらい素晴らしいものであるなら、彼は莫大なカネを残すに違いない。